【アート体験で認知症ケア:第3回】アートリップが高齢化した脳や認知症の方に向いている6つのポイントと国内外の研究結果

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認知症になってもすべての脳の機能が失われるわけではありません。残された脳の機能をアート体験で刺激して、認知症当事者の方の自信を取り戻す活動をされているのが、一般社団法人アーツアライブの林容子さんです。

複数回にわたり、アート体験を通した、認知症を含む高齢者向けの活動について解説していただいています。 >>【アート体験で認知症ケア:第1回】アーツアライブの認知症を含む高齢者向けのアート活動 >>【アート体験で認知症ケア:第2回】認知症当事者の方や家族に起こった変化の数々

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「アートは脳のチョコレート:何故アートは認知症にいいのか?」

この言葉は、世界に先駆けて芸術が高齢者の脳に与える影響について研究した故ジーン・コーエン博士の言葉です。コーエン博士は人がチョコレートを貰うと喜ぶように、アート(芸術)が脳を喜ばせることを示しました。博士が言う脳が喜ぶ状況とは、脳の広範囲の部位が活性化する状況をさしています。

コーエン博士の「プロのアーティストによる参加型アートプログラムが高齢者の身体的、精神的健康と社会機能に与える影響についての研究」では、300名の65歳以上(平均年齢約80歳)の高齢者を介入グループと対象グループにわけて、参加型アートプログラムが高齢者に与える影響を調べました。

2年後の変化を測定したところ、合唱、演劇、ダンス、絵画制作、物語創作などの参加型アートプログラムにそれぞれ連続9ヵ月間毎週参加したグループでは、それ以外のグループに比べて、以下のような効果が見られたそうです。 >>(参考文献)Gerontologist, Vol. 46 No.6 726-723

▼身体的効果 病院訪問回数の減少 投薬の減少 バランスの向上 転倒の減少 歩行速度の向上 血圧の低下 認知機能(ワードリコール、問題解決力、口頭言語力)の向上

▼精神的効果 欝・孤独感の改善 気分の向上 自己肯定感の向上 ストレス軽減

▼社会的交流への効果 介護スタッフ等との交流の増加 日常の楽しみの増加 コミュニケーションスキルの向上 外出・アクティビティー参加の増加

上記同様の効果は私自身、日本でこれまでにアートリップを実施するなかで本当に多くの方に起こった変化を通して実感しています。

前回御紹介したエピソードにもあるように、「会話がなくなっていた母が、主人が、こんなによく絵に反応して発言していたのにびっくりしました」、「とても絵に、プログラムに集中していました」と言われますし、「薬よりも効くしゃべり薬だ」とおっしゃった若年性認知症の旦那様を介護する奥さまもいらっしゃるからです。

日本国内での研究結果

対話型プログラムのアートリップが、認知症の方やその家族に様々なプラスの変化をもたらすことができる理由のひとつは、認知症の方へのコミュニケーションの基礎を踏まえたプログラムであること。そして何よりも大きな理由は、アートそのものの持つ力が脳を活性化させ、自信や自己肯定感を高め、自由な思考を促すことです。

アートにより認知症を治すことはできなくても、認知症当事者や家族の幸福度アップ、人間関係の向上、そして生活全体のQOLを上げることに疑いの余地はありません。アーツアライブでの現場の仕事とともに、大学で教べんをとる研究者でもある私は、アートリップの更なる普及のためには、定数的、定量的に効果を実証することが必要と感じ、2011年より国内外でこの分野の調査研究を続けています。

特に安倍フェローとしてこの種のプログラムが充実している米国の事例を米国の専門家と共同研究する一方、国内でもアーツアライブは2013年度の経済産業省ヘルスケア産業創出補助事業の一環として国立長寿医療研究センターの協力を得てアートリップ対話型美術鑑賞や独自の参加型アート創作プログラムが認知症の予防に効果があるかどうかを知るために、介入するグループとしないグループを決めて実験を行う「ランダム化比較実験」を行いました。

【対象】 大府市在住のMCI(軽度認知障害)の方であり、かつ鬱スケールが5以上の高齢者の方、76名 【期間】 3ヵ月

期間の短いものでしたが、アート創作と対話を週2回3ヵ月体験した人々のグループにおいては、鬱の改善と単語記憶力の改善の兆候が見られました。

また、アート体験グループでは、実験に参加するためにセンターに週2回通うなど、外出が増えたことからか歩行スピードが上がり、全体的な心理状況もよくなっていました。

▼プロのアーティストが参加者の自主性を引き出す形でワークを行った

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▼興味が生活習慣、自信を向上させた結果、短期間で絵画が著しく進歩

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(画像出典元:経済産業省「平成25年度補助事業の概要」)

実験後のアンケートやインタビューでは、 ・外出が増えた ・人見知りをしなくなった(苦手な人とも話をできるようになった) ・毎日60分散歩するとき、これまでと同じところを歩いているのに景色が変わって見えるようになった ・2年ほど引きこもっていた方が、自宅マンションの自治会役員に立候補した などという様々な行動変化が見られました。

年齢に限らず、刺激によって活性化できる脳

脳は人間の臓器の中でも珍しく可逆性の臓器です。つまり、年齢に関わらず刺激によって活性化させることが可能な臓器です。

お肌の曲がり角は、20歳などというCMフレーズが以前ありましたが、これは女性の肌が20歳位を境に老化し、そこから張りがなくなったり、皺ができたりするようになるので、そうならないように化粧品を使うように消費者に仕向ける化粧品会社の戦略です。

しかし、実際、皆様の経験からも老化にあらがって肌を若返らせることは、皮膚の細胞は可逆性ではないことから容易なことではありません。しかし、脳の細胞は年齢に関係なく刺激によって活性化され、そこから新しいニューロンが生まれ、シナプスが形成されることがわかっています。

認知症になっても、全ての脳が一変に委縮するわけでなく、脳の委縮は徐々に起こります。正常に機能している脳は刺激により活性化し、新しい神経芽を生み出します。つまり、高齢化した脳も刺激により活性化することが可能です。

アートリップが高齢化した脳や認知症の方に向いている6つのポイント

芸術には色々ありますが、特にアートを見て対話をするプログラムアートリップが、高齢化した脳や認知症の方に良いポイントをまとめると以下のようになります。

アートに込められた多様な要素が脳の広範囲な部位を刺激する

人間は脳でものを見ています。網膜は外界の世界を映しだすレンズのようなもので、脳がその情報を処理し認識するのです。色、形、線、モノ、表情、陰影、メッセージなどのアートに込められた多様な要素は、脳の広範囲な部位を刺激します。

脳は部位により異なる機能を持ちます。例えば、視覚野という見たものを認識する部位の中で異なる色は異なる部位により受け取られ処理されます。また、脳の中には人間の表情を認識する部位、陰影を感知する部位など全て目的別に部位が分かれています。

私の共同研究者でもある、ケースウエスタンリザーブ大学の老年神経学教授のピーターホワイトハウス博士は、化学物質である薬は脳内の一つの化学物質に対して化学変化を起こしますが、多様な要素を併せ持つアートは、脳を広範囲に刺激すると著者「Myth of Alzheimer’s(アルツハイマー病という神話)」の中でおっしゃっています。

アートは静止している

アートリップでは、最初に対象となる絵を約1分じっくり見て頂きます。アートは動かないので時間をかけて同じものをじっくり見ることが可能です。さらに、一枚の絵に15分から20分という時間をかけて、様々な方向から思考するようにコンダクターが質問していきます。ですので、認知するのに時間がかかっても十分対応が可能です。

若年性認知症のご主人を持つ女性は、TVで流れた新たな認知症薬の可能性のニュースをご主人に知らせたくて、「TV画面を一コマ一コマ撮影して静止画像にして印刷して見せて説明したら全部理解してもらえた」と言っていました。認知症の脳は動画を理解することができません。動画は、前後の関係が繋がって意味をなすものだからです。一方で変わることなくとどまる絵画は、認知症の方でも時間をかけてそれを認知し思考することが可能です。

アートの見方の答えはひとつではない

アート作品は、それを制作した作家だけでなく、それを見た人がどう感じるかによって完成します。

作家はある種の意図をもって制作していますが、個々の作品はそれを見る人がいて初めて完成します。作家が同じものを描いても全く異なる絵になるように、絵の見方も十人十色、見る人によって異なるのが当たり前なのです。私たちは日々の生活の中で常に正しい答えがあると信じ、それが何かを探します。

例えば「1+1」は2に決まっていて、それ以外の答えは間違いになります。水素と酸素が合わさったらできるのは水です。

効率を重視する世界では科学的な論理的思考が重視されますが、アートの世界はそれとは全く異なります。「人と異なる」「今までに無い見方」が評価されます。絵の見方は自由なのですから、認知症の方の作品の見方が普通には考えられないものであっても、それはその方の見方なので尊重します。

認知症だから尊重するのでなく、アートの見方には答えはひとつではないからです。グループで絵を鑑賞すると、それぞれの人の感性によって絵の見方が異なるので、一人で鑑賞するよりも何倍も豊かな体験ができるのです。

絵を見ることで新しいことを学べる

アートリップに参加された方のアンケートにおいて、もっとも良く聞かれるコメントが「新しいことを体験できた。学べた」です。自分の意見を言えたとか、絵を見ることが出来た、というコメントもありますが、それよりも多く参加者が価値として認めるのが新しいことの体験なのです。

人は、いくつになっても新しい事を学ぶこと、体験することを求め、脳はそれを喜びます。一枚の絵画には実に沢山の情報が詰まっています。わかりやすいところでは、絵に描かれている様々な時代、場所、人、モノ、景色、等々 描かれるものは無限大です。さらに、どんな表情をしているのか、どんな状況にあるのか、何を着ているのか、等アートを見ることで時代と場所を越えた時空の旅が可能になります。

さらに、特に写真が発明されたのちの近代の絵画は、何かを描いたものでなく、平面に色をある秩序の元に並べたものとなり、色や形が絵画の主役に躍り出ます。

また、作家が描く絵画のスタイル(様式)も実に多様です。前述の実験では、男性の方がアートのみならず、歴史に関心を持つようになりましたし、ある女性の方は、絵画の中の女性が着ているドレスに関心を持ち、その時代に関心を持たれました。アートを見ることで、絵に関連する様々なことへと関心が呼び起こされます。

好奇心が喚起されることは生きる活力へと繋がります。脳の高齢化は、それまでどれだけ脳を使ったかの貯金により速度が異なります。年をとっても常に新しい事を学ぶことで脳は活性化されます。

感性に基づく内省的な思考を喚起

アートを見るとき、人はそこに自分のそれまでの全人生とそこから培った価値観や好みを投射することになります。自分の心を真っ白にして絵を見る必要はないし、それは不可能です。

特にアートリップではグループで一枚の絵を見るので、同じ絵でも人によって感じ方、想像することが全く異なることがよくわかります。自分が他者と異なる感じ方をすることを知ることは、自分を知ることに繋がり、それはそのまま、他者への理解につながります。

これまで様々な方に同じ絵を見せてプログラムを実施していますが、多くの大人が絵に描かれているモノやコトに注目して絵を論理的に理解しようとするのに対して、認知症の方は、作品の色や作品の醸し出す雰囲気、そこに描かれている人物に対しての疑問など、絵の全体を見るのでなく、絵の部分に注目して、より感性的なコメントをされます。

見たものをそのまま素直に感じて、疑問に思ったこと、感じたことを発言するので、こちらがはっと気づかされることもよくあります。私たちは無意識に合理的に絵を見ようとする傾向がありますが、認知症の方にはそれが無いのでとても素直に絵が見られるのだと思います。

フラットな立場での質の高いコミュニケーション

認知症になると、他者との接触をさけるようになり、引きこもりになりがちです。結果会話をする機会が減り、それが症状を悪化させることも珍しくありません。会話の内容も、必要最小限のことに限られてきて、いわゆる楽しいおしゃべりというのが減ってしまいます。

しかし、彼らは発話をする能力を失っているのでなく、その意欲がなくなっているだけなのです。絵を見ることで、そこに描かれた様々なものから様々な感情をもったり、そこから過去の体験を思い出したりします。対話の中で、普段は使わない語彙や表現が自然と出てきます。

また、歴史にまつわることや、人間関係、ファッションなどなど、話題には限りがありません。家族の方ともフラットに様々なことについて質の高いコミュニケーションが可能になります。単純な日常生活にまつわることだけでなく、日常とは関係の無い事項についての話ができるようになります。アートリップへの参加回数を重ねるごとに、自分の思ったことを言葉にすることが当たり前になり、それは日常生活での会話の内容も変えることに繋がるのです。

《執筆者/一般社団法人アーツアライブ代表理事・林容子》

尚美学園大学・大学院芸術情報研究科准教授/武蔵野美術大学, 一橋大学大学院他非常勤講師 米国PUBLIC ART REVIEW誌アドバイザー National Center for Creative Aging 国際フェロー 川崎市文化芸術振興委員 「進化するアートマネジメント」「進化するアートコミュニケーション:医療福祉に介入するアーティスト」 レイライン刊 著者 「Meet me: アートを認知症の人々に」NY近代美術館編 アーツアライブ刊 翻訳

1999年より美大生や若いアーティストとともに病院や老人介護施設でのアートプロジェクト(ArtsAlive)を企画、実施。米国ケースウエスタンリザーブ大学教授ピーターホワイトハウス博士(脳神経学者)とアートが脳の高齢化特に認知症に与える影響とアートプログラムを介護に導入する際の政策課題について研究している。

▼arTrip アートリップの開催について 上野の国立西洋美術館で毎月1回第三水曜日に、港区オレンジカフェ(認知症予防カフェ)、都内近郊複数の施設で定期開催、複数の美術館で不定期開催しています。

アートリップへの参加申し込みは、一般社団法人アーツアライブまで 一般社団法人アーツアライブ http://www.artsalivejp.org/

アートリップについてのラジオ放送が再放送中

昨年10月に林容子さんが出演したNHKラジオ深夜便「アートは脳のチョコレート」が、2017年3月20日から23日の間、毎日23:25ごろより45分ごろまで再放送されるそうです。

アートリップのお話しなど、ご関心のある方は是非この放送をお聞きください。

日時:2017年3月20日から23日の間、毎日23:30より45分ごろまで NHK第一ラジオ「ラジオ深夜便」ないとエッセイ~アートは脳のチョコレート http://www.nhk.or.jp/shinyabin/index.html