【卒・介護者インタビュー】主介護者の母をサポートするために介護離職も。母娘3人チームで続けた介護

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「介護」と一言で表しても、人それぞれ事情や中身は違います。それでも介護を通じて得た経験や知識は、確実に誰かを救い役に立つことは、安心介護内のやり取りを見ていると実感できます。

人々は介護が終わった時に何を想い、何を伝えたいと思うのでしょうか?

今後安心介護では、介護が終わった方にご自身の経験や現在の心境などを伺っていこうと思っています。

今回は音楽講師として働く真野さん(40代・女性)をご紹介します。 母親を中心に祖父と祖母の介護を長期間にわたって経験し、その中で介護離職もされた方です。「母親がうまく娘たちを巻き込んだ」と語る彼女に、介護の状況や介護離職時の状況、転職先で介護と仕事が両立できた理由などを伺いました。若くして介護を経験した彼女は何を語るのでしょうか?

母親に巻き込まれる形で介護がスタート

-お母さんが「うまく娘を巻き込んだ」とのことですが、具体的に手伝わなきゃと思ったきかっけは何でしょうか

きっかけも話し合いもありませんでした。

まだ祖父母が元気なうちに先を見越しての同居を決めたのが母親でしたので、同居開始時から既に巻き込み大作戦は始まっていたと思われます。意外な先見の明に驚いたものです。

家に介護が必要な老人が居れば、必然というか当然というか介護しちゃうものでして、埃が落ちていたら掃除するのと感覚的には大差ないです。

介護は母親と私、そして当時まだ学生だった妹との3交替制で行っていました。お互いが自由になる時間を割り当てたら、うまくハマったんです。

3交代介護の始まりは、「なんかこれでやってみたらうまく回るよねぇ? じゃ、これで行く?」みたいな軽いノリでした。

-3交代制はどのように生まれたのでしょうか?

祖母の介護の前に、パーキンソン病だった祖父の介護をすでに3人で行っていました。祖父の介護の時には、祖母が鬱になってしまったのでその頃から3人です。

祖母の時は、甥がすでに生まれていたので、3人でしたけれども2.5人な感覚でした。

―どんな分担でしたか?

祖父がまだ入院する前の自宅介護の時は、 13:00頃~17:00頃が母 17:00頃~22:00頃は妹 22:00頃~6:00頃が私 6:00頃~9:00頃が母 9:00頃~13:00頃が私...という感じでした。

祖父の入院中も3交代だったのですが、無理が生じて破綻しました。

もちろん、私や母の仕事が休みの日とか、妹が講義の無い日とかは臨機応変に。あと調子のいい時は祖母も参加したりしていました。

なぜ私が夜中当番だったかというと、我が家は2世帯っぽい作りになっていまして、1Fに両親と妹が、2Fに祖父母と私が住んでいたからです。あと私が宵っ張りだったのもあります。

祖母の時も自宅介護中は上記のシフトです。 ただ、祖母の時はショートステイしたりロングステイしたりが好きな人だったので、ひと月に10日くらい家にいなかったので全く楽でしたけれど。 祖母は最終的にはステイ中に心臓の具合が悪くなって入院し、病院で最期を迎えました。

こんな感じだったので、祖母の時は1週間程度の旅行が出来ていました。祖父の時は3泊5日が限度でしたが、ワガママさせてもらいました。

―介護時の状況を、可能な限りで教えてください。

祖父はパーキンソン病と認知症の症状も出ていました。その頃は介護認定がなかったので、重度はわかりませんが、1996年ごろからかなり深刻になったと記憶しています。

介護ベッドが16万円だったかな? その他に車椅子、簡易トイレ、階段などの手すり、お風呂の介助用具などなど全て自費で買い揃えたり設置したりしました。結構な出費だったはずです。

完全にパーキンソン病の症状が出ていたのですが、パーキンソン病と認定すると国の補助が出るからか、なかなか医師がパーキンソン病の認定をしてくれなかったんです。そのまま、病院の脳神経内科に入院し、そこで最期を迎えました。

最後の一月か一月半かは、我が家もかなり一杯一杯な状態で、泊まりで付き添いをして下さる方をお願いしていました。 こちらもかなり費用がかかったはずです。

祖母の介護は祖父が亡くなった後、介護認定が始まった2000年頃から介護が始まり、要支援からスタート。最終的にも要介護2から上がりませんでした。

▼介助なしで歩くのが困難になってきた頃に祖母が書いたもの

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祖母は歩けなかったですけれど、一応、自力で立てて、ベッドから車椅子とか車椅子からトイレの便座への移動もできていたし、最後まであまり認知症の症状がなかったので楽だったのだと思います。

―ケアサービスはフルで使っていましたか? 

祖父の介護と祖母の介護は重なっておらず、たしか5年ぐらい間が空いています。たったの5年くらいですけれども、ケアサービスは祖父と祖母の時では大違いでした。

祖父の時はフルに使っても入浴サービス程度。確かトイレ掃除一回5分とかそんなのもあったりしたと思いますが、「5分で終わるトイレ掃除?」と思いまして、使いませんでした。結局、介護ベッドも簡易トイレも自費で購入しましたし。

ショートステイも本人が嫌がったため使わず、それはもう大変でした。 それでも入浴サービスはありがたかったです。 普通のお風呂に入れようと思うと、大人2人がかりでも大仕事だったので。

祖母の時はもう少し色々使えたので、車椅子レンタル、オムツ、ショートステイ、夏場のロングステイなどフルに活用しましたが、結局足りない分の自費負担もそこそこ大きかったです。

あと、オムツの性能が! ほんの数年の差なのに性能が段違いに良くなりました。祖父は嫌がりましたが、祖母は意外に気に入って常用していました。あれは素晴らしいです。粗相の始末が減るのはメリットが大きいです。

介護離職や仕事との両立について

―介護離職を経験されたとのことですが、なぜ主介護者ではない真野さんが介護離職という道を選んだのでしょうか?

当初私は保母の仕事をしていたのですが、より多い収入を得ていた母親の収入を減らさないためです。

私自身がとてつもなく貧乏になるだけで、妹は学生でしたし、家族全体を考えると1番リスクの無い方法でした。

転職先である個人向け音楽講師の仕事が予想よりも早く決まり、無職期間はあまりありませんでした。仕事中は介護から離れることができるため、すぐに決まったのはありがたく、仕事が良い気分転換となりました。

―転職先で介護の両立がうまくできた理由は何ですか?

大前提として、我が家には介護の人手があったという事です。

転職先も年度更新制の業務委託契約で、給与形態も固定給ではなく歩合給となるため、仕事量をある程度自分で決めることが出来たり、仕事を開始する時間と終了する時間をある程度自分の都合で設定出来たりしたのは大変有難かったです。

必ずこなさなければならない年間稼働日数や休日のイベント業務など、いくつかの決まりごとさえ守れば、お休みの取り方などは比較的自由度が高い仕事場ですので、そこは恵まれていたかもしれません。

ただ収入は扶養の範囲内程度となり、とても少なくなりました。

―仕事がいい気分転換になったとのことですが、具体的なエピソードがあれば教えてください

ひとつは、勤務形態が30分区切りだというのが、大きいと思います。

30分ごとに違うお客様と向き合うので、気持ちの切り替えが30分毎に必要だったり、その30分の間はお客様と向き合う事に集中するので、仕事以外の事を考える余裕が無い=煩わしい介護の事を完全に忘れられるというのは、心の健康のためには非常に良かったと思います。

お客様の多くは低年齢層なため、お会いする毎に成長が見られたり、そもそも子どもと1対1で過ごす時間というのは、会話からして小難しい事もなく、明るく建設的な事が多いので純粋に楽しい時間でした。

お客様には壮年層の方もいらっしゃいましたので、嫁姑の話や老後の話題、それこそ介護の話題なども含めた大人の会話もあったりして、そういった大人の会話から小さな子どもとの会話といった様々な年代のお客様とお話しできたのは、大変よい気分転換になっていたと思います。

―業務委託契約とのことですが、介護者へのサポート体制はどうなっていましたか?

特別なサポートがあるわけではありません。

祖父が亡くなった際には大きなイベントの前だったため、夜中に看取った後、夜が明けてから葬儀社を決めて、斎場を抑えて、葬儀までの間の遺体を霊安施設に預けて…と色々手続きを済ませ、一睡もできぬまま仕事に行きました。

仕事は一切休めず、葬儀も仕事を終えたその足でお通夜に、翌日も斎場で骨を拾ったその足で仕事に行きました。

介護を振り返って

―今思い出すと笑っちゃうエピソードはありますか?

笑っちゃうエピソードというか、小さな笑いはしょっちゅうありました。

祖父が突然、「その後ろにいる人たちは誰だ!」と、私には見えない人たちが見えていたり、「犬のようなものがいる」...と言ったり。「犬じゃなくて犬のようなもの? 何よそれ、しかもこっちには見えてないよ!」とか。

あと、「フランスのパリの神戸で買った時計はどこへしまった?」とか。結局どこで買った時計なんですか? って。

―逆に大変だったことはありますか?

大変だった事は、もう忘れちゃいました。 簡易トイレのお掃除とか食事の支度とかでしょうか。

―現在介護中の方に伝えたいことを教えてください

避けられるのならば、心を鬼にしても、自宅介護は避けたほうがいいでしょう。同居での介護は大変でした。 介護が始まる前に結婚しておきましょう(笑)。

あと、使えるものは何でも使いましょう。 黙って教えてもらうのを待っていても、誰も教えてくれませんので、いろんな人に根掘り葉掘り聞いて情報を得たほうがいいと思います。

それから、介護施設の入所はすぐには出来ないので、申し込みだけでも早くしたほうがいいです。 ケアマネさんとの関係や病院、医師との関係も大切でした。

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まだ周囲が介護の事を考えていない年代のころから家族の介護に関わり、それを「当然」と語る真野さん。家族のために介護離職を選んだことや、深夜の介護を担当されたというエピソードから、責任感の強さが感じられました。

介護離職をきっかけについた仕事を、現在も続けているそうです。大変なことも多かったはずなのに、「覚えていない」と語るポジティブな姿には、元気をもらえた気がします。

トップの写真は、「祖母が趣味で作った俳句を親戚が俳画にしたもの」とのこと。現在も思い出の品として、部屋に飾られているそうです。